短歌っていうのが、もともとはハレの日のものなのに、現代ではケの日のものになっている、みたいな話を前月の雑感でしたけれど、さりとて日記のように、あったことを書くのが短歌かというと、そういうことでもない。
あったことを書くでもない、思ったことを書いてるでもない、そもそもリアルタイムな感情でもない、じゃあなんだ、これは、というものを、毎日、1行、書いている。
絆とはみえるすべてを断ち切って未開の地にて惜しむまぼろし
先日、別の短歌で絆という言葉を使ってそれに違和の批評をいただいたのだが、絆がいい意味で使われるようになったのはここ数十年のことらしくて、たしかに6,70年代の書物で、断ち切るべきしがらみのような文脈で使われていたのを覚えている。
これはひらがな表記の問題(きずな、きづな)もあるのだが、やはり原義の「引き綱」説のように、照屋はあまりいい意味を付与していない。
こういった少しずつ変わっていくニュアンスのようなものは、もうどうしようもないので、気がついた時には、自分が過去になってしまっている、ということだ。
同じものをみているという気持ちさえ分かてぬほどには人とは孤独
我もまた過去に属していくことをマーラーに先に言われて思う
一挙または時間をかけて世の中がこおるところへ転がってゆく
この月は、なんだか同じことばかり歌っているような気がするな。自選は以下。
お前だけ大福吹雪の模様して寂しくないか遊具に雀
治るということとは違い、川べりを幼くなりし母と歩けり
一切の過去をたくわえ火曜日の脳は夕べに少し横たう
楠緒子のひたいの白さ思いつつ空想の菊を投げし漱石
美しい弟子こそ道を開くべしいばらに面(おもて)傷つけられて
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